付箋ノート
特に「労働対価を伴っている」「市場での所有権の移転が伴わない」という点が、奴隷ではないのではないか、と思う要因になっている気がする(・ω・)

この定義が一般的な感覚であるとすると、慰安婦を「性奴隷」であるとは思えないわけだよね。

やはりこの問題は「言語的問題」である気がするな(・ω・)

一般的な日本人の「奴隷」の感覚

① 人狩りに遭い拉致される
② 意思に反して労働させられる
③ 労働に報酬は伴わない

こんな感じかな?

だからsex slaveときいて「性奴隷なんていなかったんや!」って日本人の多くは思っているし、海外人権団体から「現代日本にも性奴隷はたくさんいる」って指摘されてもポカンとするのではないか(・ω・)
議論屋が知っておくべき3つの事柄
1:どんな論理的文章にも隠れた前提条件がある。ときにその条件は受けいれがたい
2:何かと何かの間には、実は明確な境界がない場合がしばしばある。また境界線があっても、それが妥当とは限らない
3:論理的であることは、人の心を動かす決定的な要因ではない
キリスト教のない日本で人権思想を保守に理解させるのは絶望的に困難。しかも、大体、世界の常識なのに、お前らはなんで分からないんだ的なスタンスでアプローチする人が多いので、なおさら困難。
自分が気に入らない奴らに攻撃的に頭おかしいこと言う人を頭おかしいと思いつつ痛快だなーと喜んでたら、だんだん自身の思考も言動も攻撃的で頭おかしい感じになってきちゃった人たち。
うん、まぁ、今回は性が絡む話だったけど、そうでなくてもね。例えば、「共産主義では、人は能力に応じて貢献して、必要に応じて受け取るべきだってされてるよね」って言ったのに対して、「それは間違っている!人は成した成果に応じて受け取るべきである!お前のような云々」とかって噛み付かれる。
重要なのは、まず間口、次いで量的主力、それからコア、前衛。コアが弱ればジャンルの形はぼやけるし、前衛が弱ればテーマや技術の開拓が遅れるけど、間口や量的主力を失うほどに致命的ではない。コアや前衛のために間口や量的主力を軽んじるってのは、首を犠牲に手足を守るようなもんだ
Twitter / FXMC_
私が、差別糾弾闘争で学んだこと…「差別糾弾というものは、差別者が刻んできた生き様と、俺たち、被差別の側が差別を受けてきて尚、立ち上がる決意を持った生き様とのせめぎ合いの場」と先達から、第一の心得として教わった。
対極の生き様のぶつかり合いなのだ。